「詩(ソネット)に濡れるくちびる:序章」

 夢を見ているみたいだった。
 重ねられる日々の全てが夢のようで、いつかは覚めてしまうのではないかと不安に思うほどだった。

「遼太郎、遼太郎はどこだ?」
 澄んだ声が春の庭先に響く。この宮園子爵邸の庭園は広く一目では見渡せないから、こんなふうに彼が声をかけるのはいつもの事だった。
 遼太郎は厨房の脇で手伝っていた薪割りの手を止め、声のする方向に駆けて行った。
「はい! 千玲さん、お呼びですか?」
「ああ、薪割りを手伝ってくれていたんだな。ありがとう」
 走ってきた自分を迎えたのは、子爵家の嫡男である宮園千玲。まるで人形のように滑らかで白い肌と美しい顔立ちを持つこの青年こそが、遼太郎の憧れの人だった。
「悪いけど、ちょっと付き合ってくれないかな。居留地に滞在している父の知人の屋敷まで届け物を頼まれたんだ。一緒に行ってくれると助かる」
「もちろん構いません。今用意をして参りますので……こんな汗だらけでは千玲さんの側を歩けません」
「分かったよ、玄関で待っているから」
 気品に溢れた笑顔は千玲の美貌を一層引き立てている。いつも側にいて毎日会う相手だと言うのに、その度に遼太郎は見蕩れそうになっていた。
 遼太郎が宮園家に居候するようになったのは一年ほど前の事だ。千玲の父、宮園政明子爵はこの横浜の大学で教授をしている。その大学に入ったばかりの遼太郎の学力に目をかけた政明は、自分の貧しい境遇を援助しようと書生として家に招いてくれたのだ。
 遼太郎が生まれ育ったのは東北の貧しい農家。しかも幼くして両親を亡くし、親戚の家で育てられた。当然きらびやかな都会や貴族の生活など知るはずもなく、まず屋敷そのものが別世界のように見えた。
 田舎者でみすぼらしいとしか言えない自分のような人間にも、決して驕る事なくあたたかく接してくれる、本当の紳士である政明。奥方である千鶴子は身体が弱く殆どをベッドの上で過ごすような生活だったが、御伽話の姫君のように美しく優しい人。
 そして一人息子である千玲。
 千鶴子によく似た繊細で美しい顔立ちと、政明の力強い眼差しを併せ持った佳容な青年。
 子爵の嫡男としての誇り高い佇まいに、英文学を研究する真摯な姿勢は、遼太郎を一瞬にして惹き付けた。
 こんな夢のような家族の中で書生として勉強させてもらえるなど、未だに分不相応だと思ってしまうのだけど。千玲は自分が卑屈になりかけると決まって怒り、自信を持てと叱咤してくれる。
 奨学金で必死に大学へと入り、筆記用具さえ満足に揃えられない遼太郎を、学内に集う上流階級の人間は嘲笑う事もあるのに、千玲はそんな遼太郎を本当の身内のように扱うだけではない。
  ── 遼太郎は、僕の弟のようなものだからね
 軽蔑の目を向ける学生たちの前でそう宣言し、遼太郎を庇ってくれた事さえある。
 その優しさに感動し、ますます遼太郎は千玲へ憧れを抱くようになって行った。
 最初は尊敬。それから、触れる事のなかった家族への親しみ。そして今は ── 。
「そうだ、遼太郎。シェイクスピアのソネットについて、今度論文を書いてみようかと思うんだ。君の意見も取り入れたいと思うんだけど、どうだろう?」
 山手の坂道を歩く千玲が振り返ると、艶やかな黒髪がきれいになびいた。
 千玲の荷物を持ち後ろをついて歩く遼太郎は、またそんな姿に見蕩れそうになり、返答に戸惑ってしまう。
「お、俺の意見……ですか? そんな、とても千玲さんの参考になんか……」
「何を言ってるんだ、シェイクスピアは君の得意分野じゃないか。よろしく頼むよ」
 少し強引だけど邪気のないおねだりに、逆らえる術はない。
「俺で良ければ、頑張ります、千玲さん」
 良かったと返される笑顔に胸が切なく疼く。
 ただの主人としてじゃない、この甘苦しい気持ち。
 千玲に出逢って初めて知った感情。
 貴方が好きなんです、千玲さん ──
「Shall I compare thee to a Summer's day? Thou art more lovely and more …」
 流麗に詩の一節を口ずさむ千玲の背を見つめ、遼太郎は胸の中で呟いた。
 彼の綺麗な唇から恋の詩が語られる度、遼太郎は胸を焦がした。まさに同じ気持ちで彼を見ているから。
 でも、決してこんな想いは知られる訳には行かない。
 同性であり、あまりにも身分違いである千玲が、こんな感情を受け入れてくれるはずがない。
 こうして側にいるだけでいい。それ以上を望んではいけない。遼太郎は厳しく己に言い聞かせる。
「そうでもしなければ……俺は……」
 揺れ動く心が、いつか。箍を外して激しく暴れ出すのではないか。遼太郎は自分の感情を畏れていた。
 どうか、ずっと。
 美しいこの人の側にいる事を赦して下さい。
 遼太郎は空に祈りながら、千玲の後を追った。

 祈りの届かぬ現実が目前に迫っている事など、この時はまだ気付かずに。

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